明治の後半、高まる近代化・産業化の進展を支える専門人材の育成要求に対応するため、専門学校令が公布され(1903年)、実業専門学校の拡充の方向が確立された。(帝国大学は数が少なくまた学術志向・国家志向の強い、きわめて高コストな一部エリートの養成機関としての性格が強かった)
とくに二十世紀を迎え「実業の時代」=「実業教育の時代」、そして国際化に必須な産業基盤である銀行業と貿易の発展を支える専門人材を育成する「商業教育の時代」が幕を開けようとしていた。
商業教育分野においては既に東京高商(1887年)、神戸高商(1902年)に次ぎ、山口高商(1905年)、長崎高商(1905年)が開校していたが、更に官立第五高商の設立が急務の課題として提起され、東京以北に設立する国の方針のもと仙台、盛岡、函館と小樽が有力候補として手を挙げた。
当時の小樽は人口九万余を数え全国第十四位と道内一であり(1908年)、九州の福岡よりも大きい北の商業都市であった。また国際貿易港として神戸、横浜に次ぐ位置を占めつつあり、読売新聞は社説(1907年9月14日)で「北海道の開発は小樽の繁盛を促し、其の地理的勢力は開港場たる函館を圧し」、「小樽はけだし遠からずして門司、長崎を凌駕するに至る可きか」と論じ、その重要性は裏日本の発展や日ロ関係という観点からも認識されつつあった。
「小樽日報」創刊に携わった石川啄木は「小樽に来て初めて真に新開地的な、真に植民地的精神の溢るる男らしい活動を見た」と観察し、その後も「疾駆する小樽人の心臓は鉄にて作りたる者の如し」、「小樽は都市としては未だ一個の未成品・・・・最も有望なる未成品にして、其の性格恰も活力満々たる壮年の市民の如き」と記している。
また四歳から高商時代を含め拓銀小樽支店解職まで二十二年間小樽で育った小林多喜二は「街並が山腹に階段形に這い上がった港町で、広大な北海道の奥地から集まってきた物産が、そこからまた内地へ出て行く謂わば北海道の「心臓」みたいな都会」とし、更に「時代的などんな波の一つも、この街全体が恰も一つの大きなリトマス試験紙でもあるかのように、何等かの反応を示さずに素通りにするということはない」と故郷小樽を回想している。
当初、北海道としては札幌農学校の大学昇格と小樽高商、函館高工の設立を併せて目指していく開発方針であったが、中央では東北・北海道の結節点にある函館が第五高商候補地として有力視されていた。小樽区(当時は市ではなく区)は状況を挽回すべく、地元有力者から土地一万坪の無償提供を受けるとともに、創立費二十万円の負担とあわせて、国に対して猛烈な誘致運動を展開することとなる。
日露戦争で財政的に疲弊していた政府は、小樽区の官民挙げての熱心な誘致運動と資金負担条件が決め手となり、第五高商設立の地として小樽を指名した(1907年)。
創設費(建設費)二十万円は年間予算二十一万円余の小樽区にとって膨大な金額であり、北海道庁と熟議した結果、五万円は道内他支庁が分担することとなった。
残り十五万円と、提供された土地が傾斜地であったために新たに発生した追加造成費用一万七千円を小樽区債発行(十八年償還)で何とか乗り切ることとなった。
当時の教育界誌「教育持論」によれば、小樽高商について「広く商業に関する諸学科を学修せしめて、国際貿易に従事せんとする秀俊を養成する方針」と記している。
また「実業家としての品性」を豊かに涵養した高商生の存在が、実利実益に傾きがちな小樽人に自省を求める刺激と契機になり、「商業道徳の向上進歩」が期待された。
石川啄木は、当時の小樽の街や港の空気を、次のように詠んでいる。
かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人人の 声の荒さよ
建物設計は文部省建築課の新山平四郎札幌出張所長が担当し、長崎高商をモデルとし、北米コロニアル建築様式が採用された。小樽の街と石狩湾を臨む絶好の高台に本館・商品陳列館・図書館が配置され、ゆったりとした空間が広がるものであった。
しかしその後の造成工事は困難を極め建築工事も遅延したが、皇太子小樽行啓に間に合わせるため、二年遅れで本館が漸く完成に至る(1911年4月)。
初代校長には、商学の専門家に適任者がおらず難航したが、教育行政に手腕を持つ渡辺龍聖に白羽の矢が立つ。渡辺は東京専門学校(現・早稲田大学)から留学生としてミシガン大学等で数学・理学・語学を学び、コーネル大学で哲学・心理学・倫理学を専攻し博士号を修得、帰国後、東京高師教授・東京音楽学校校長などを歴任した。
その後、袁世凱総督の教育顧問として7年間清国の教育改革に尽力することとなる。
再びドイツ留学中に文部省より小樽高商校長を打診され、欧州における商業教育の実情を精力的に視察し帰国、最新の高等商業教育法の導入・実践に情熱を傾けた。
その教育方針は、「研究者を養成するにあらず、卒業後直ちに実務にあたり、何ら不便を感ぜざる所謂実際家を教養せんとする」ものであった。他高商に比べ英語の時間数を増やし、第二外国語を新設し、「商業学・商品実践」に多くの時間を割いた。
校長のほか教授六名、助教授三名、書記三名の陣容で開校し、授業料年間二十五円であった。入学試験は東京と小樽で実施し、百名の募集に対し、無試験検定(推薦入学)36名と受験合格者47名の83名が入学予定者となり、内72名が入学した。その試験科目は英語・数学・国語/漢文・地理・論文(将来の志望)であった。
入学者は全国から集まってきたが、その出身学歴は2/3が中等学校、1/3が商業学校(双方とも五年制)であったが、実社会で既に働いている者も数多く最年長は二十六歳であった。
1911年(明治44年)5月5日無事72名の入学者を迎えて宣誓式が行われ、以降この日をもって開校記念日とされる。嘉納治五郎東京高師校長、沢柳東北帝大総長はじめ名士の講演が頻繁に開催され、八月には皇太子(後の大正天皇)が行啓される等実業界・教育界・地元小樽/北海道より大いに期待を集めた船出であった。
渡辺校長の教育方針として「人格の修養」と「実際に通ずる人」の養成を掲げた。前者は倫理学を専攻する渡辺の真骨頂であったが、中国大陸での苦い経験が「商業は信用を主眼とする業務」との信念を持つに至ったと思われる。
先に触れた通り授業料は二十五円であったが、制服・書物・生活費など全て含めると月額二十円ほどの経費となり、父母の仕送りはかなりの負担となった(因みに家族を抱えた石川啄木の朝日新聞校正係の月給は二十五円)。苦学生にとっては奨学金・アルバイト・篤志家の援助は必要不可欠なものであった。
徐々に講義体制・組織運営を整備していき、翌年五月には待望の商品陳列館・図書館の竣工をもって、初期の小樽高商の教育基盤は確立することとなる。1914年4月には第一回卒業生を送り出すが、渡辺校長は「入学者のうち1/3が落伍者となった」と述懐している。稲穂小学校上の玉の井坂が「地獄坂」と呼ばれるようになったのは、開校直後の頃からと言われている。
(当文は、『小樽商科大学百年史(通史編)』(2011年7月7日発行/編集:小樽商科大学百年史編纂室/発行者:山本 眞樹夫/発行所:国立大学法人小樽商科大学出版会)第一章 創立前史~第二章 緑丘の創立 第一節 開校 までを広報委員会が要約・一部加筆したものであり、次回は「戦後の大学への昇格」について記述する。詳細については、上記百年史を精読されたい。)